まいにち労働ちゅう

ど−もー・・・

なにも更新してなくてすんませんですよー。
タイトルの通り、なんかしばらく無休で働いとる状況なんですわ。。

地方周りの合間にスキマ無くスタジオ&札幌市内の仕事が詰まっている。

今日も朝からスタジオにこもって商品撮影をやっております。

忙しいのはイイコトダー
ありがたやありがたや。

あぁ、そうそう
おととい美深町でスズメバチにぶすっと刺されましてね

市街地の役場駐車場で、カメラをごそごそセットしてたら
背中にブスッ!!

あまりの痛さにとっさに後ろ手で掴んだら
でかいスズメバチが手の中でブブブブ…と暴れていた。

意外に黄色の産毛がホワホワだったのが悔しい。。。
地方仕事の必須アイテム『キンカン』をすぐに塗り塗り。

ハチ毒にキンカンが効くかどうか不明ですが
毒の拡散は防いだようで、幸い大きな腫れにはならなかった。

お盆時期の土曜なので、あちこち閉まってて
昨日はとりあえずやってる某・総合病院に行ったのですが

なんか先生が…かなり不思議なオーラを漂わせてる女医さんで
目が合ってんだか合ってないんだかわからない
見ているだけで吸い込まれそうなアヤシさでした。

で、事前に電話で症状話したら「ハチ毒」なので今日来た方がいい、というので
予約を入れて行ったのに、肝心の担当医が

えぇっと…スズメバチの刺傷は私よくわからなくて…う〜ん…というではないの。

他の先生達は夏休みらしく、その先生ひとり。

しまいにゃ◯◯病院ならきっと詳しい先生がいると思いますので…と。

えぇ〜
診れないなら最初から断っておくれよ
今日来い、っていったやつ出て来〜い!!

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結局、塗り薬と診察、初診料で2,500円ほどに。

や、「診察」なんてほとんどしてもらってないからね…きみたち。

こんなことなら午前中撮影したいものあったのに。

ナゾの疲労感に襲われながらスタジオに仕事しに行きましたとさ。
めでたしめでたし。


リクガメサカサカ

あうー

なんなんだ毎日毎日このキョーレツな紫外線は…

ここ最近の紫外線の痛さはハンパじゃないと確信。

8月入ってから数日がとくにひどかったよ〜も〜
毎年この時期、仕事で外撮影が続くので なんとなく違いがわかるのです。

 

なぜか肌が軟弱で、UV対策は手抜きできません。
日光湿疹だけでなく皮膚の炎症で赤く腫れ上がったりと、エライ目にあいます。

日焼け止め、帽子、ストール、UVカット手袋で完全防備しても
布の下の皮膚に突き刺さって痛いかんじ。 今年は明らかに強い気が。。。

どうにかならんかのー

 

 

そんな炎天下で不思議な光景に遭遇

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リクガメお散歩中

 

なんちゃらリクガメくん、推定8才、だそう。

けっこうねーカメダッシュ早いんですよサカサカと!
シャッター速度1/60でもブレるくらい。

 

写真の男の子は私同様、ただの通りすがりで飼い主ではありません。
しかし、とにかくカメと一緒に写りたくて片時も離れてくれない〜

2枚ほど撮ってあげたが、なおもいっこうに離れようとしなくてまいった!

他の見物人たちもデジカメを構えつつも
見ず知らずの少年がちゃっかりカメラアングルに入るので
思うように撮れず困っていた。

 

しまいにゃだんだん調子に乗ってエスカレートし、

ひとりで大騒ぎしてカメを押さえつけたり無理に抱き上げたりして
ついに我慢の限界がきた飼い主さんに叱られるも、やめない…

この位の年頃の男子って、なんでか人の注目を浴びたがりますねぇ。。。

 

飼い主さんの了解をもらったので
リクガメの模様を真俯瞰で撮りたかったのに
私のタイムリミットまで少年は去ってくれず撮れなかったぜ…

 

撃沈。。。

 


今日のお客様

今日は若き写真家・後藤悠樹さんがフレメンに来てくれました。

彼は現在東川町で開催中の写真イベントに参加のため来道中。

某アートプロジェクトに関わっておられる北海道大学の加藤さんが
我々と引き合わせてくれました。

 

後藤悠樹さんは、戦後サハリン(ロシア)に残留せざるを得なかった
日系人・朝鮮系人・その子孫たちのもとへ何度も訪れ
人物や生活周辺などを撮影されています。

公式HPはこちら 
http://goto-haruki.com/index.html

 

まだ25歳という若さで、お肌ピッチピチですが

イマドキのチャラいおしゃれ風写真とは対極の
しっかりと思想があるドキュメンタリーな写真。

 

ブログ用に一枚

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左から、露口、後藤さん、加藤さん

 

このあと、露口の強い希望により露口&後藤さんとのツーショットも撮らされる。

将来有望なキラキラした青年、好きらしいっすよ。

 

帰りしなに慌てて撮ったので、背景が・・・ なんかいつもこのバックだなぁ。

スタジオスペースで撮りゃいいんだよねー。何のためのスペースなんだ。

 

後藤悠樹さん、今後が楽しみ〜な写真家です。


北海道ぐるぐる仕事

*PHOTO WORKS はこちら 覗いてって寄ってって。

 

日曜だけど仕事なんだぜ♪

昨日は休みのつもりで気を抜いてたら
朝から打ち合わせの招集がきて慌てて仕事モードに切り替えてGO。

いーよいーのよ忙しいのはいいことだー。

 

明日からまた怒濤の北海道中ぐるんぐるん巡業の到来です。

日帰り多しではありますが、日中はほとんど札幌にいません。
早朝出て、夜遅く帰札ってなパターンで埋め尽くされます…

ですのでブログ「note」「PHOTO WORKS」ともに
更新がゆる〜くなりますのでご容赦を。

 

金曜日カナモリがオヤツとともにやってきました。

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なんだか有名なんですって? おいしかったっす。

甘さ控えめで大人ロール。

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フェイスラインが!引き締まってきたよ!

来るたびにちょっとづつシャープになってるなぁ・・・

いっそカナモリ観察日記にしようかな。

 

ブログ村にも登録したことだし〜
色んな国から閲覧してくださるお客様向けに
少しは本業のコマーシャルフォトグラファーらしい写真でも
載せとけば親切で分かりやすいのですがねぇ。ねぇ。。。

 

ここはなにぶん仕事の広告写真以外の
我々の個人作品としての写真活動を見ていただくために 立ち上げたHP。
なので、はりきって仕事写真載せたりはしない方式です。

 

昔のHPではがんばって色々載せてたんですがー
地方都市の広告写真スタジオなんぞどこも大体似たような業務内容ですし 
載せたいものに限ってクライアントからNGが出たり…と

中途半端な感じになったので、あえて広告写真カテゴリーは無くしました。

 

かわりに時々、仕事レポートみたいなのを混ぜ込んでおります。

本日もスタジオ撮影 の様子撮っておこう!と思いきや
ばたばた準備が始まったらキレイさっぱり忘れてましたわ。

やーねー

 

あとは特にコレといった写真もないので…

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『すきまインコ』

 


知里幸恵さんにふれる

先日、仕事で北海道大学へ行きましたよっと。

大学院地球環境科学研究院・小野有五教授へ取材。

ちなみに小野先生はオノ・ヨーコを従姉に持つという
あの超絶セレブ小野一族のおひとりです。

書くのも面倒な程の家系図なので各自wikiなどで検索してください。

IMAGIN・・・
小野先生がフェイスブックとか始めたらどんな『お友達』でいっぱいになるのか…

取材の後に「僕、伊藤さんとどっかでお会いしてるんだけどな〜」はて?…と。
私もたしかに以前どこかでお目にかかっている気がしていたのに
結局二人して「「・・・なんでしたっけねぇ〜・・・」」と思い出せず。

 

で、小野先生は本職は上記の地球科学を研究され…
ようするに地理学者であり、主に「氷河」についてご研究。
世界中の氷河のもとへ飛び回っているというお話でした。

 

そんな小野先生が一見、あれ畑違いでは?とも思われる
アイヌの作家・知里幸恵さんの記念館 『銀のしずく記念館』の開館に
尽力されたということで お話を聞きに。

きっかけは…肝心の取材ネタなので今ここでは省きますが、
色々お考えがあったわけです。

知里幸恵さんやアイヌ文化、土地、歴史について等
無知な私にもわかりやす〜くとってもフレンドリーに教えてくださいました。

いやはや面白い話がたくさん聞けて大収穫。

 

一気に知りたい熱が沸いてきた。

 

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イトウ専用カメラバッグ(仕事用)とともにパチリ。
こういう崇高なものは、自分のテリトリーの最上級のものと並べるという自己満足な礼儀。

 

作品資料用にアイヌ関連本がずららら〜〜っと並んでる師匠の本棚に当然あるはずが
たまたまどこかに貸し出し中らしく…我慢できず図書館まで行って借りて来た。

知りたいと思ったら、すぐ知りたい性分なのですよ。

 

文字という文化を持たなかったアイヌ民族は口承伝導「カムイユカラ』という方式で
民族の言語・歴史・文化・道徳観などを伝えて行った。

ごく簡単にいえば、アイヌ民族の様々なアイデンティティーを歌にして
子孫へと語り継いでいくわけです。
*厳密には口承伝導のなかでも色々細分化されているようです。

そのアイヌ語で謡われるカムイユカラを知里幸恵は まずローマ字に変換し、
さらに和人の言語である日本語に翻訳したのが この『アイヌ神謡集』なのです。

 

知里幸恵さん(登別出身 1903〜1922)

言語学者・金田一京助氏の協力のもと19歳という若さで「アイヌ神謡集」を書き残し
完成したその夜、持病の心臓病のためこの世を去った アイヌの才媛です。
弟の知里真志保氏はのちに北海道大学の言語学者となり
世間ではこの二人を『アイヌの天才姉弟』と評して賞賛します。

 

和人によるわけのわからない差別や迫害を受け
貧しく暮らしていたアイヌのうら若き乙女が、金田一京助との出会いにより
重度の病をかかえながら文字通り命懸けで完成させた著書です。

1922年ってぇと…大正11年にですよ!

しかも若干19歳にして! 深窓のご令嬢じゃないんですよ?
才媛すぎるでしょうよ。

 

同行のライターさんは幸恵について学校で習った、とのことですが
私は習っておらずまったく今まで未知のひとでした。

逆に弟の知里真志保氏のことは、なんとな〜く知ってはいましたが。

 

うぅ〜。。。

父方・母方ともに、たった二世代前の祖父達の若かりし時代になってから
北海道に移り住んだ我が一族は、開拓民でさえないのですが…あまりに色々知らぬ。

 

だがしかし、かつてクラスメートに純血だというアイヌの少年がいたのに
何と言うか、学校全体がそれについてアンタッチャブルな雰囲気を醸し出していたなぁ。

彼については普段とりたてて、故に差別という認識はなかったけども
直接彼の前でアイヌについて無邪気に話題にすること自体できる雰囲気ではなく、
子供達の間でさえ「なんとなくしてはいけないこと」だった。

今思えばほんとにおかしな話だが、その当時うちのクラスではそうだったのよ。

 

一度、おバカな男子どもが参観日に来た彼のお母さん(と彼)に対しアイヌ、という言葉を
皆の前で揶揄としてつかい、学校の廊下を怒ったそのお母さんに追いかけ回されて
トイレに逃げ込み先生が取りなし謝罪した、というエピソードがあった。

その時ばかりは、教室でわんわん大泣きするアイヌの少年に誰も言葉をかけられず
皆どうしたらよいのか困惑しながら、オロオロしていた記憶がある。

薄情なのではなくて、心の成長の早い女子たちは
そもそもその民族の事情について”慰める”ということ自体が失礼な行為に感じていたからだ。

「大丈夫〜?」「気にするんじゃないよ〜」「泣かないで〜」女子お得意の
どの哀れみの言葉もこの場合、さすがに使えない白々しさだった。 
なんて声を掛ければ良いのか誰も分からなかったんだと思う。

 

この考えさえも正しかったのか愚かだったのか今も判断がつかないですが…。

しばらくのち学年が上がり、クラスもバラけて、気づいたら
いつの間にか彼は(身体的な事情もかかえていた)別の学校へ転校していた。

苦い記憶になった。

 

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『銀の滴 降る降る まわりに』

早速読み始めましたが、美しいなぁ〜
情景が目に浮かぶし言葉が美しい。

これをナマのカムイユカラの謡で聞いてみたい。