知里幸恵さんにふれる

先日、仕事で北海道大学へ行きましたよっと。

大学院地球環境科学研究院・小野有五教授へ取材。

ちなみに小野先生はオノ・ヨーコを従姉に持つという
あの超絶セレブ小野一族のおひとりです。

書くのも面倒な程の家系図なので各自wikiなどで検索してください。

IMAGIN・・・
小野先生がフェイスブックとか始めたらどんな『お友達』でいっぱいになるのか…

取材の後に「僕、伊藤さんとどっかでお会いしてるんだけどな〜」はて?…と。
私もたしかに以前どこかでお目にかかっている気がしていたのに
結局二人して「「・・・なんでしたっけねぇ〜・・・」」と思い出せず。

 

で、小野先生は本職は上記の地球科学を研究され…
ようするに地理学者であり、主に「氷河」についてご研究。
世界中の氷河のもとへ飛び回っているというお話でした。

 

そんな小野先生が一見、あれ畑違いでは?とも思われる
アイヌの作家・知里幸恵さんの記念館 『銀のしずく記念館』の開館に
尽力されたということで お話を聞きに。

きっかけは…肝心の取材ネタなので今ここでは省きますが、
色々お考えがあったわけです。

知里幸恵さんやアイヌ文化、土地、歴史について等
無知な私にもわかりやす〜くとってもフレンドリーに教えてくださいました。

いやはや面白い話がたくさん聞けて大収穫。

 

一気に知りたい熱が沸いてきた。

 

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イトウ専用カメラバッグ(仕事用)とともにパチリ。
こういう崇高なものは、自分のテリトリーの最上級のものと並べるという自己満足な礼儀。

 

作品資料用にアイヌ関連本がずららら〜〜っと並んでる師匠の本棚に当然あるはずが
たまたまどこかに貸し出し中らしく…我慢できず図書館まで行って借りて来た。

知りたいと思ったら、すぐ知りたい性分なのですよ。

 

文字という文化を持たなかったアイヌ民族は口承伝導「カムイユカラ』という方式で
民族の言語・歴史・文化・道徳観などを伝えて行った。

ごく簡単にいえば、アイヌ民族の様々なアイデンティティーを歌にして
子孫へと語り継いでいくわけです。
*厳密には口承伝導のなかでも色々細分化されているようです。

そのアイヌ語で謡われるカムイユカラを知里幸恵は まずローマ字に変換し、
さらに和人の言語である日本語に翻訳したのが この『アイヌ神謡集』なのです。

 

知里幸恵さん(登別出身 1903〜1922)

言語学者・金田一京助氏の協力のもと19歳という若さで「アイヌ神謡集」を書き残し
完成したその夜、持病の心臓病のためこの世を去った アイヌの才媛です。
弟の知里真志保氏はのちに北海道大学の言語学者となり
世間ではこの二人を『アイヌの天才姉弟』と評して賞賛します。

 

和人によるわけのわからない差別や迫害を受け
貧しく暮らしていたアイヌのうら若き乙女が、金田一京助との出会いにより
重度の病をかかえながら文字通り命懸けで完成させた著書です。

1922年ってぇと…大正11年にですよ!

しかも若干19歳にして! 深窓のご令嬢じゃないんですよ?
才媛すぎるでしょうよ。

 

同行のライターさんは幸恵について学校で習った、とのことですが
私は習っておらずまったく今まで未知のひとでした。

逆に弟の知里真志保氏のことは、なんとな〜く知ってはいましたが。

 

うぅ〜。。。

父方・母方ともに、たった二世代前の祖父達の若かりし時代になってから
北海道に移り住んだ我が一族は、開拓民でさえないのですが…あまりに色々知らぬ。

 

だがしかし、かつてクラスメートに純血だというアイヌの少年がいたのに
何と言うか、学校全体がそれについてアンタッチャブルな雰囲気を醸し出していたなぁ。

彼については普段とりたてて、故に差別という認識はなかったけども
直接彼の前でアイヌについて無邪気に話題にすること自体できる雰囲気ではなく、
子供達の間でさえ「なんとなくしてはいけないこと」だった。

今思えばほんとにおかしな話だが、その当時うちのクラスではそうだったのよ。

 

一度、おバカな男子どもが参観日に来た彼のお母さん(と彼)に対しアイヌ、という言葉を
皆の前で揶揄としてつかい、学校の廊下を怒ったそのお母さんに追いかけ回されて
トイレに逃げ込み先生が取りなし謝罪した、というエピソードがあった。

その時ばかりは、教室でわんわん大泣きするアイヌの少年に誰も言葉をかけられず
皆どうしたらよいのか困惑しながら、オロオロしていた記憶がある。

薄情なのではなくて、心の成長の早い女子たちは
そもそもその民族の事情について”慰める”ということ自体が失礼な行為に感じていたからだ。

「大丈夫〜?」「気にするんじゃないよ〜」「泣かないで〜」女子お得意の
どの哀れみの言葉もこの場合、さすがに使えない白々しさだった。 
なんて声を掛ければ良いのか誰も分からなかったんだと思う。

 

この考えさえも正しかったのか愚かだったのか今も判断がつかないですが…。

しばらくのち学年が上がり、クラスもバラけて、気づいたら
いつの間にか彼は(身体的な事情もかかえていた)別の学校へ転校していた。

苦い記憶になった。

 

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『銀の滴 降る降る まわりに』

早速読み始めましたが、美しいなぁ〜
情景が目に浮かぶし言葉が美しい。

これをナマのカムイユカラの謡で聞いてみたい。