3.11

あの痛ましい災害から3年。

TV、ネット、Facebook、Twitter…どこもその話題で溢れている。

皆、自分は3年前のその時どこで何をしていたか? を鮮明に思い出す日。

3年経ったので、あの時の私たちの状況を少しお話ししようと思います。

 

わたしは3年前のその日

当時在籍していたアシスタントと
2階建ての古民家をリノベーション したおしゃれなカフェに来ていた。

2Fのテーブル席につき、注文を済ませた私は1Fに下りて雑誌コーナーを物色し、
ふたたびアシの待つ2Fのテーブル席 に戻ろうと
古くて急な階段をノシノシと上っている最中・・・

木造の古民家がガタギシと大きな音を立てながら揺れ始め
「えぇっー!! あたしが上ってるからっ!? 」と、冗談のようだけれど
ほんとにその時は単に家のキシミのせいなのだと感じた。

席についてアシと笑い合ったのもつかの間
なんだかゆっくりした、波の上にいるような長い横揺れが つづき
カフェの照明が大きく揺れ始め、他の客たちもザワついてきた。

当時持っていた地デジチューナー付きの携帯で
TVのニュース を見ると東北でとてつもない地震が発生し、
激しく揺れた東京のTV局も(生放送だったらしく)大騒ぎになっており
アナウンサーたちもパニックで何もかもが混乱している最中で
詳細がまったく分からないまま、とりあえず、急いでスタジオに戻ることに。

そのときはこんなに大きな災害になるとは予想もできず
まず思い浮かんだのは安易にも「スタジオの機材ラックが倒れているかもしれない!」
というカメラマンにとっては一番大切な仕事道具の心配だった。
ちょうど社長も不在の日で、とにかく慌ててスタジオに帰ったが
幸いにもすべての仕事道具は何も変わらず所定の位置に収まっていた。

それぞれの自宅にも電話し家族と家の状況を確認して一息。

余震でラック類が倒れたら心配だからと、機材やPC周辺機器をすべて
広いスタジオスペースに集め、安全確保をしつつ情報を漁ることに。

スタジオ内はTVがなく地デジチューナーも圏外で
その後の情報は ネットで探るしか無かったが、こちらも速報が入り乱れ
真偽も分からずしばらく混乱しっぱなしだったと思う。

ネットで情報を漁っているとアシが
『 福島の原発について何か載ってませんか?』と聞いて来た。

「へ?…どしたの?」
『弟が…働いていて…』
「…そういえばそんなこと言ってたよね…特にニュースは出て無いようだけど…」
『あ、じゃぁ、原発は無事に停止したんですね…良かった…」

*当時20代半ばだった弟君は◯電の社員ではなく、関連会社のスタッフとして
福1に勤務してまだ1年目の出来事。

その時はまだ、後に福島第一原発の事故のニュースは入っていなかった。

まさか、あんな大きな事故が起きていたなんて
まったく予想 の範疇を超えてしまっていた。

早めに帰宅すると、母が食い入るように見つめていたTVには
信じられない津波の映像が映し出されていて文字通り言葉を失った。
多くのひとが今まで見たことはおろか、想像も付かない映像だっただろう。

飲み込まれる街、流される家々、車、畑、空港…逃げ惑う人々、悲鳴。

夜には福島第一原発の事故のニュースでさらに大混乱になっていった。

原発がコントロール不能に。
科学技術大国ニッポンと信じていた我が国の神話は
「原発に放水車で水を掛け続けるしかない」という映像とともに崩れ去った。

ほんとうにこれが日本なのか?
こんなバケツリレーみたいなことが最後の手段なのか!?

消防や警察、自衛隊、他分野の手を借りてもどうにもならない絶望的な状況が
映し出されていた。

弟君の身の安全も頭をよぎったが、もはや一個人の心配をするレベルでは無くなっていた。

翌日いつも通りに出勤したものの、アシは泣きはらした顔で
弟の安否がわからないことで泣き続けるばかり。早々に実家の方へ帰宅させた。
まずは身内の心配、国規模の大きな災害とはいえこれは致し方のない感情で。

電話連絡もつかず、所属会社の方でも安否が掴めないまま2週間ほどたってから
ようやく弟君から無事の知らせが届いて久々にアシの笑顔を見たのを覚えている。

時間を経るごとにどんどん拡大していく災害に、すでに色んな仕事が ストップしていた。
決まっていた撮影も無くなったり、延期になったり。

 

さらにちょうど、宮城県の実家に出産のため里帰りしていた若い友人の安否が分からず
不安な一夜を過ごしたが、朝方、奇跡的にほんの20~30秒だけ携帯が繋がり
一家の無事がわかりひとまずホッとした。水も電気も止まっていたけれど
生まれて間もない赤ちゃんが母乳だったことが不幸中の幸いだったらしい。

その後、札幌に戻ってくるまでの数日間はバッテリーの節約のため、
現地では分からない(TVが見れない)情報を、逆にこちらから調べたりなど
メールで時々やりとりしていたが、いよいよ帰ってくる前日に
「札幌は食べ物がありますか?」と送られてきたメールには絶句してしまった。

詳しく報道はされなかったけれど、やはり地元では食料やガソリンを求めて
本来あってはならないことが繰り広げられていたとのこと。

広範囲で道路が寸断され、列車やトラックも機能せず
しばらく物流がストップしてしまい、被災地に食料や防寒具を送りたくても
どうにもならない歯がゆい思いをしたひとが全国に溢れるほどいただろう。

 

帰札後の食料の心配をする彼女に、急いで近所の大型スーパーに走って
(無断で申し訳ないけど) 野菜も肉も魚も米も、ずらりと並んでいる写メを送った。
大丈夫だから、安心して戻っておいで!と。

ご実家も倒壊せず、家族も無事、札幌に子供たちと安全に暮らせる家があった彼女は
まだまだ恵まれて いた方なのだろう。

後日、生まれた子に会いにいったとき
「千歳空港について、ローソンにたくさん食物が並んでるのを見て家族で泣いた」
という言葉を聞いて胸が詰まった。

さらに聞くと避難所に行かず、壊れなかった自宅に留まっていた故
実際にどのくらいの災害だったのか、札幌に戻って来てからTVで知った。とも。

津波で大きな被害のあった石巻市は彼女が通っていた高校があったのだとか…。

そして彼女が2週間前に赤ん坊を産んだ病院は津波で浸水したらしい…

 

たった数日で何もかもが正常でなくなり、混乱し、機能しなくなり
あぁ、日本はほんとはこんなにも脆い構造であったのか…と痛感させられた。

しかし、そんな中でも道徳的であろうとする日本人の
「和を持って尊しとなす」という精神により 協力し合い、助け合いしながら
少しづつ、少しづつ前進してきたように思う。
今もまだ復興した、とは言えない問題も山積みだけども。

ほどなく放射能による大気汚染で農作物や水への被害が明るみになり
世間が大きく反原発の風潮になった。

当然だと思う。 結局だれもコントロールできなかったのだから。
事故前の安全対策も含めれば、災害のせいだけではない被害が
今なお続いているのだからね 。

 

この時期、どこで誰と話しても「悪しき原発」の話題になり
避難せざるを得ず、やむを得ない状況で家畜を置いて来てしまった農家や
畑を手放した農家の方たちの切ない 話に胸が痛むのと同時に
身内に関係者がいるアシのことを思うと、なぜかいたたまれない気持ちで過ごした。

もちろん被害に遭われた当事者たちの苦しみは
ここで私ごときが言葉にするのも憚れるほど大きな痛みで… 

現に今なお、いや…この先長い年月
自宅に戻ることも 叶わずに絶望の縁にある方々もたくさんおられる。

原発は当初、夢のエネルギーであったかもしれないけど、
こうしてコントロール不能に陥ると、とたんに手のつけられない
凶悪なシロモノに変わるのを日本国民は理解した。

付近の住民だけでなく、原発で働く当事者たちの命や生活をも
奪ってしまうのだ。

 

原発は無いに越したことはない!と今ははっきり言わせてもらう。
でも一番は管理体制の甘さ、が招いた事故でもあるということ。国も◯電も。

 

その後アシも友人もそれぞれに日常に戻っていき平穏に暮らしている。

この3年が長かったのか短かったのか…よくわからない。

 

 

今、世界中で地震や、水害、火山の噴火、異常気象などによる
大規模な絶えずあちこちで発生しており、地球の変動期を痛感せざるを得ない。

日本は地震が日常茶飯事になりすぎて、警戒心が薄れて来ているように感じる。

北海道とて対岸の火事ではない
あの痛ましい大災害の教訓を忘れてはいけないな、とあらためて胸に刻む。

 

我ながらまとまりのない話を長々と書き綴ってはみたものの
何が言いたい、というわけではなく…

ここに書けない色々な出来事はだいぶ端折ったけど
ほんとに、何を書きたかったのやら自分でも謎。

一見、地元札幌暮らしの私には大きな影響はなかったかの距離だけど
直接ではないにしろ、偶然にもいろんな視点からこの災害を見守ることになった
あの複雑な状況をただ記しておきたかったのかもしれない。

 

 

東日本大震災にて被害に合われたみなさま、
お身内を亡くされたご遺族のみなさま
あらためて心よりお悔やみ申し上げます。

そして、この先を進んでいくみなさま
まだまだ解決していかねばならないことだらけですが…

みなさんの心が少しづつ、暖かさを取り戻し、前に進んでいけますように。